プロフィール

拝野 健(はいのけん)台東区議会議員1期目

1985年 青森県生まれ。
2006年 東北大学経済学部入学。
    学業と並行して飲食店に就業。ホールスタッフからスタートし、店長を経験。
    仕事に集中するため大学を退学し、最終的に複数店舗の統括として働く。
2011年 仙台で東日本大震災に遭遇。震災後の混乱の中で、自らの無力を感じる。
2012年 衆議院議員 辻清人事務所に入所。主に台東区の担当する秘書として6年活動。
2016年 一人息子を授かり、台東区で子育てをはじめる。
2019年 より地域に貢献できる仕事を目指し、自由民主党の公認を得て台東区議会議員に立候補。初当選。現在一期目。
2021年5月より
    区民文教委員会副委員長
    文化観光特別委員会委員
    台東区議会自由民主党副幹事長(現職)
2022年5月より
    自民党東京都連研修委員長
2023年4月 統一地方選挙にて2期目当選
2023年5月 監査委員

政治家を目指した原点

こんにちは、拝野 健です。
今回は、私の生い立ちを振り返りつつ、なぜ今、挑戦しようと思ったのかをおはなしさせていただきます。少し長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

私は、高校卒業まで、青森県八戸市で育ちました。私の家庭は母子家庭でしたが、地域には親代わりの方がたくさんいました。 登下校で毎回声をかけてくれる向かいの家のおじさん、取れた野菜をおすそ分けしてくれるおばさん。みんな、私たちの家庭を助けてくれていました。

祖父は水産加工業を営んでいました。生まれた頃には会社は清算していましたが、家の近所には、かつての従業員の方々が暮らしていました。近所の方々は口々に「お前のおじいちゃんには世話になった」と言いながら私を可愛がってくれました。

幼少期から高校生まで私が笑顔で暮らすことができたのは、ホームヘルパーとアルバイトを掛け持ちして朝早くから夜遅くまで働いていた母親はもちろん、地域の人々のおかげでした。

私は多くの人に助けられながら、楽しく幸せな幼少期を送ることができました。それ以上に助けてくれる方々もまた幸せそうだったことをはっきりと覚えています。このような環境で育ち、私も同じように周りの人を幸せにしたい、そんな生き方に人生をかけていきたいという思いが芽生えていったのだと思います。

地元の公立の小学校、中学校を卒業した後、高校は奨学金で通いました。浪人生時代の学費は金融公庫で借り、生活費は家庭教師をして賄いました。当時は大学で経済学を学ぼうとしていました。「失われた10年」と評された直後の時期で、今後は経済を知り、世の中の数字を理解することが重要だと考えてのことです。
入学した東北大学には奨学金とアルバイトでやり繰りをしながら通っていました。
そのアルバイトの1つが飲食店です。カウンター越しのやりとりを通して、お客様の喜ぶ姿、幸せな姿に触れられることは、かつてない充実感につながりました。私は飲食店に魅了され、大学を休学し、正社員として仕事に没頭しました。新しい店舗を立ち上げると、社長は私にその運営を任せてくれました。せっかくいただいたチャンスでしたので、休学という中途半端な状態ではなく、全力で取り組めるよう大学を辞め、背水の陣で臨みました。おかげさまで店は軌道に乗り、3店舗、4店舗と増えていく中で少しずつ自信もつき始めました。そして、自分で店を始めたいと思っていた時に起きたのが東日本大震災です。

当時私は仙台に住んでいました。町中が大混乱で、何が起きていて、次に何をすべきなのか誰もわかりませんでした。建物は崩壊し、火事も発生、今まさに命が奪われとようとしているのに、誰も、何もできない状態が夜まで続きました。
避難所には観光客も大勢いました。彼らは土地勘もなく、携帯電話も不通で情報を得ることもできず、地元の人以上に困惑し、ただ助けを待つしかない状態に置かれていました。
やがて日が暮れて、仙台では見ることのないような星いっぱいの夜空を見たとき、私は無力感に襲われました。それから2週間、炊き出しなど自分なりにできる限りのことをしました。しかし、その間もずっとその無力感が私の頭からはなれませんでした。
そして、浪人してまで大学に入ろうと思った当時の気持ちをもう一度思い出したのです。「昔、僕を助けてくれた人たちのように、みなさんの人生の力になりたい。お役に立ちたい。」
そして決心しました。「もう一度挑戦しよう。」

大学を辞める前、私は宮城県のとある市議会議員事務所でかばん持ちをしていました。
そして、その時のご縁で知り合っていた秘書の方を通して、現在外務大臣政務官である辻清人代議士の私設秘書として働く機会をいただきました。2012年の12月から働き始め、間もなく6年になります。秘書としての日々は、毎日勉強することもたくさんあり、試行錯誤の連続で、充実しています。
活動をしていく中で、お役に立ててよかったと思えることもたくさんありました。しかし実現できないこともたくさんあります。それは、既存のルールの中での処理や対応であればできますが、ルールや設計の変更が必要である場合、秘書である私にはできないということです。政治家にしかできないことがあります。それは、皆様一人一人の声を伺い、それを政策に反映させ、未来へ向けてより良い台東区にしていくことです。魔法のように明日からすべてが明るくなるようなことは難しいと思いますが、毎日少しずつ、変化は少ないけれど、確実に重ねていく。ふと、振り返った時に「台東区でよかった」と皆さんが実感していただけるように私の残りの人生を使っていきたいと思っています。
私はこの間、台東区に家庭を持つまでになりました。人生の伴侶を得て、息子も授かりました。いただいたご縁に感謝するばかりです。そして、この大好きな町で幸せな家庭を築いていきたいと思っています。

私はこの歴史と伝統ある台東区に住み始めてたった6年です。それこそ何世代も前からずっと暮らす方も多い台東区では、まだまだ新参者です。しかし、私も、妻も、子もみんなこの台東区はもちろん、台東区の人たちが大好きです。この町に住み続けたいと思っています。これを読んでいただいているみなさんと同じ気持ちではないでしょうか。この町で、子、孫、その先までみんな幸せに100年以上住めるようにしたい、それが私の率直な希望であり、目標です。
確かに、様々な課題があります。少子高齢化という構造的な問題、中小企業経営は必ずしも楽観的な未来だけではありません。子どもを預けたいのに預けられない、親の介護問題、老人ホームが足りない等。国内有数の観光地であるからこそ発生する観光バス対策や外国人旅行客対応、民泊。そして、いつか来るといわれている大地震。
まだまだ地域の力、政治の力で取り組まなければならない課題はたくさんあります。しかし、私はこれらの課題に正面から向き合い、「台東区に住んでてよかった」とみなさんが実感できる台東区にしていきたいと思います。まだまだ若輩ですがこの思いをお伝えできればと思い、書かせていただきました。
長い文章に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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